【追憶編①】君たちが大人になったら伝えようと思ってたこと

※このブログは私の子供が大人になったら伝えようと思っていることの覚書です。
 書ききった後に考えが変わる可能性もあります。
 たまたま見かけてしまった人は参考になるか分かりませんがお楽しみいただければ幸いです。

そのうちやろうと思っていたことだが私が40に差し掛かろうというタイミングでやっておくことにする。

今なおちゃんは5歳、ゆうくんは3歳であるが、15歳ぐらいになったら伝えておこうと思っていることがある。

今やるのは考えの整理もあるが、不慮の事故などの可能性も考えてのことだ。

君たちにどのような形で伝わるかは今の私には知る由もないが、私の話を参考にするかどうかも含めて自分で判断してほしい。

とりあえず以下の順で伝える内容を整理しようと思う。

  1. 私という人間について
  2. お金の話
  3. 人生の話

まずは私がどのような人間であるか知らないことには、話を聞くかどうかすら判断できないと思う。

なので、まずは私がどんな人間なのかを伝えようと思う。君たちが知ってるのは30過ぎてからの私だからな。

若い時はこんな感じだったのよって話だ。

2.3.は具体的な話の内容を考えるためにこのブログを書いているが、大まかな内容は決まっているのでお楽しみに。

というわけで追憶編の始まり始まり

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幼少期

幼少期の記憶は大分なくなってしまったが、多少覚えていることや両親から聞いたは話があるのでそれを紹介する。

生まれる前の話になるが、私は逆子だったらしい、母親も「帝王切開の可能性もあるし嫌だな~」と思っていたらしいが、生まれる直前に頭位(普通の位置)に戻ったらしい。

生まれた時はへその緒が首に絡まっていたらしいが特別問題なかったとのこと。

名前は父親が決めたらしく母親は由来なども知らないようだ。(学校の宿題かなんかで聞いた)

まあそこそこ私も自分の名前が気に入っているので特別父親に由来を尋ねることもなかった。

名前自体はよく聞くが、漢字の並びはかなり珍しいと思う。同じ名前の人はよく見るけど同じ漢字の人は見たことないかな。

さて、当然私はすくすく育つわけだが、どうも生まれた時からそこそこ運がいいらしい。

両親が住むマンションのくじ引きで当たりを引いたのは私らしいし、そこそこ大きい祭りのくじなども当たっていたなど、比較的運のいい人間らしい。私もそう思っている。

※当時私の実家周辺は人気で分譲マンションの購入権を得るためのくじ引きがあった
※あまりにも父親がくじ運がなく、数ヶ所目で私に引かせたら一発で当たったとのこと

この辺までは聞いた話だが、私が覚えていることだと、よく自転車で遊びに行っていたな。

ライオンのぬいぐるみがお気に入りでおんぶしている写真が残っている。

あまり覚えていないが母親が病気か何かで入院した時、祖母が面倒を見てくれていたのだが、何か気に入らなかったのか布団でバリケードを作り籠城し、祖母を近づけないようにしていたようだ。

あとは父親が中国かどっかのお土産で買ってきた人参茶を飲んで「電気の味がする」と言ったら数年クソほどいじられてムカついたのは覚えている。

多分本人は舌がしびれたりしたんじゃねぇかな(覚えてない)。

あとそうだな。幼児に聞く定番の「誰が好き?」ってやつの回答で、「1番は母親、2番はお兄ちゃん、父親は3番目に”嫌い”」と言ったらしい(爆笑)

何で3番目に好きって言ってあげなかったのかは自分でも分からない。

父親はあまり言わなかったが、母親曰く「クソ面倒な子供だった(意訳)」そうだ。多分そうだと思う。

まあそんな話を聞いたり覚えていたりするから、ゆうくんが面倒だなって思っても、自分も面倒だったらしいしなって思って流してる。

下の男なんてそんなもんじゃないかな。

小学生時代

小学校に入学した私はそこそこ活発な子だったと思う。

運動は得意で体育の成績もよく、勉強は主に母親が教育に熱心だったので、ほぼ100点しか取らない程度にはできていた。

加えて、4歳?ごろからピアノも習わされていたので音楽もでき、成績は普通に良かった。

兄がいるのもあって、小学校がどのようなものか事前に知っていたのもあるだろう、下の子の特権である。

5年生か6年生の時に、先生が用事で1授業抜けることがあったが、その時に代理で先生を任されたことがある。

当時は面倒くさいと思ったがそのぐらいは”できる”子だったのだろう。(代理の授業は無事に終わった)

では問題がなかったかと言うとそうでもない。

まあ分かると思うが私は人付き合いが苦手である。

そしてまだ幼いため「なんでできないの?」ぐらいは普通に言ってしまう。

言われた相手はかなりムカついてただろうが、なまじ私が成績がいいため反論もできなかったのだと思う。

当時は気づいてなかったけど、一緒に登校するそこそこ仲がいいかなって思ってたクラスメイトの誕生日会に呼ばれないぐらいには嫌われてたみたいね。まあ致し方なし。

あとは素行不良だったのもあるな。

自分と同程度の成績の子たちはつまらなく思えて遊ぶことがほとんどなかったように思う。

彼らは中学受験を控えてて時間がなかったのかも知れないし、私のことが嫌いだったのかもしれない。

私もあまり積極的に遊ぼうとはしなかったが…。

そんなわけでよく遊んでいたのは素行不良の子たちだった。不思議と馬が合ったように思う。

まあここには書けないようなことをそれなりにやらかした挙句、大問題になって親呼び出しくらって大目玉ってことがあったが子供らしい可愛いものだったと思う。

中学生時代

何だかんだありながらも成長し中学生になった。

小学校時代の成績はよかったが、両親の教育方針で中学受験はしなかったので、地元の公立中学に通うことになった。家からも近いしとても楽だった。

部活は幼少期から習っていたし、兄も入っていた水泳部にしようと思っていたが、兄が卒業すると同時に廃部になってしまった。

まあ運動は好きだから何かやるかと思って、当時流行ってたスラムダンクにも影響されてバスケ部に入った。

練習は楽しかったがミニバスからやってた同級生には全く歯が立たなかった。

それと、当時は分かってなかったが、私が得意だったことは全て個人競技であった。

ピアノ、水泳、勉強、どれもチームプレイは全くなく、個人でやるものばかりだった。

あと私は人付き合いが苦手なのもあって、団体競技の才能は毛ほどもなかったように思う。

で、私のちょっとしたやらかしもあってめちゃくちゃ嫌われた結果、居心地最悪の環境になったためさっさとやめてしまった。

結果だけ見れば嫌な思いをしただけなので入らない方がよかったかなとも思うが、最初のうちは結構楽しかったのでまあよいかなと思ってる。

仮にもう一度中学生活やり直せることがあったら絶対に部活には入らんが。

とまあ自分史上かなりの暗黒時代となっているが成績はよく、体育と音楽もできたので恐らく学年で1番の成績だったんじゃないかと思う。その程度は余裕だった。

とは言え、人から嫌われまくるとメンタルにくるのもあり、2年の終わりごろに鬱病になってしまった。受験シーズンなのに迷惑な話である。

病院の先生には(少なくとも)半年は何もするなと言われたので言われたとおりにし、学校は出席日数が足りないと成績が悲惨なことになるので何とか通った。

半年近く経って夏休みになると、学校に行かなくてよいのもあって大分メンタルも回復した。

鬱にはなったが、原因の対人関係はいずれなんとかしないといけないと思ったので、自己啓発系の本を読み漁っていた。

たまたま呼んだ「マーフィーの黄金律」が自分に合う感じがしたので、記載されていた5本の柱を決め、それ以外はどっちでもいいと考えることにした。

元々人付き合いが苦手な私は、人付き合いを上手くできるよう頑張るのではなく、人付き合いで自分を乱されることがないよう努めることにした。(今もそう)

これまでの経験上、余計なことを言わないだけでそこそこ上手くいくだろうと思ったので、譲らない5つの柱以外については拘らないことにした。(5つの柱はもう忘れてしまった)

大まかな方針が決まるとそこそこやる気も出てきたので、8月ぐらいから受験勉強を始めた。

順当とはいかなかったが学区内の1番上位の公立高校に進学できたのでまあいいかなと思ってる。

正直中学時代で楽しい思い出はほとんどないが、3年の時に有志でバンドを組んだのは覚えてる。

私はベースを担当し、ギターボーカル2人、ドラム1人で何かの機会に発表したが、あれは楽しかったな。

ボーカルの1人はその後音楽の道に進んだようだが元気にしているだろうか。

1st、2ndのCDは買ったんだがその後ライブ限定になっちゃったから買えてない。

あとがき

ここまで書いたら腹が減ったのでラーメンでも食ってくる。

続きは完成次第下にリンクで出すのでよろしく。

【追憶編②】君たちが大人になったら伝えようと思ってたこと

【追憶編②】君たちが大人になったら伝えようと思ってたこと
さて、前回ラーメン食ってから続き書いておこうと思ったが寝てしまった。すまんな。 前回は中学生時代だったから続きを書いていこう。 高校生時代 中学時代は人間関係で色々あったが、学区内で1番偏差値の高い公立高校に受かったのでそこに進学した。 も...
ひろきち

YouTubeのゲーム実況が好きです。 牛沢さんの動画をよく視聴しています。

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